【今週のことばたち#31】サヨナラだけが人生だ(井伏鱒二)

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【今週のことばたち#31】サヨナラだけが人生だ(井伏鱒二)

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「サヨナラ」してますか?

こんにちは。8月も5週目に入り、少しずつ夏の終わりが近づいているのではないでしょうか。もちろん、ここから長い長い残暑があるとは思うのですが、それでも、いわゆる真夏という季節は過ぎ去るはずです。

だから、というわけではないのですが、今日は終わること、サヨナラということについて話したいと思います。いかがでしょう。みなさん、最近「サヨナラ」ってしてますか。サヨナラの典型といえば、3月の卒業式だと思いますが、ここのところは携帯電話等の発達により、「サヨナラ」って感じじゃない、なんて話も聞いたりします。たしかにLINEをはじめとしたSNSで日常的に連絡が取れてしまえば、基本的には完全な「サヨナラ」にはならないわけで。僕が小学校の頃は、転校するときに新しい住所を伝えて、手紙のやり取りなんかもありましたが、今はそういうこともなかなかないのかもしれません。

ただ先日、小さな話ではあるのですが、「サヨナラ」が個人的にはありました。それは、同居していた妹との「サヨナラ」です。妹と僕は元々、一人暮らしをしていたのですが、ひょんなことから母と3人で暮らすこととなり、母は途中で単身赴任先の父のもとへ行ったため、途中からは妹と2人暮らしをしていました。忙しい会社で働く妹と、のんびりフリーランスの僕の2人暮らしは、僕が基本的な家事は担当し、食事も基本的に僕が作っていました。料理好きな僕とはいえ、毎日のご飯を準備するのはなかなか骨が折れ(世の家族のご飯を準備してる方々は本当に凄いです)、めげそうなこともありましたが、それでも、仲が悪いわけではなく、美味しいとご飯を食べてくれる妹の性格も相まって、最後までご飯を作り続け、家のことをやりきることができました。

そして、明確な理由があったわけではないのですが、お互い、更に飛躍するためには引っ越しが必要だろうという話になり、ひーひー言いながら、妹は東京の真ん中に、僕は東京の端っこに、お互い引越しをしました。もちろん、2人ともLINEはやっていますし、連絡を取ろうと思えば簡単にできます。ですが、友達ではない家族と連絡を取るって少ししにくいというか、特に異性のきょうだいだとちょっとやりにくいところがあります。そんなことも想像がついていた僕らは(少なくとも僕は)、なんとなく「あ、これは小さなサヨナラだな」なんて思ってました。

今日はそんなサヨナラについて、色々考えられる名言を取り上げたいと思います。

今週の名言は……

今週の名言は、あの文豪・井伏鱒二が残したことば「サヨナラだけが人生だ」です。

井伏鱒二は、国語の教科書で取り上げられることも多い作家で、代表作としては、『山椒魚』などがあります。太宰治を始めとした作家とも交流があったことで知られ、その柔和な人柄は、見た目だけでなく、文章からも伝わってくる感覚があります。

そんな井伏鱒二ですが、翻訳でも名前が知られており、『ドリトル先生』シリーズの翻訳もされていたようです。そして何より、今回のことば、「サヨナラだけが人生だ」もまた、『観酒』という漢詩の訳として、残っていることばなんです。

そんな井伏鱒二の名訳を通して生まれたことばを軸に、色々考えてみたいと思います。

「ハジメマシテ」と「サヨナラ」

今回、このサヨナラ、ということばを考えていくにあたって、まず個人的に思ったのは、すべての人間関係は「ハジメマシテ」と「サヨナラ」だけでできているなあ、ということです。もちろん、「ハジメマシテ」のずーっとあとに「サヨナラ」が来る関係性だと、最初に「ハジメマシテ」があったこと、いつか「サヨナラ」があることなんて忘れてしまうのですが、よくよく考えてみると、近くにいる家族も、ちょこちょこ会う友人も、SNS上で連絡を取っているその人も、「ハジメマシテ」があって、「サヨナラ」があります。これは逃れられない事実というか、人生の摂理の一つなんだと思います。

例えば、仕事の関係で、会ったことがない人に、「はじめまして、〇〇といいます」といって挨拶をして、少しずつ話をする。最初はギクシャクしていた会話も次第に角が取れ、柔らかくて居心地のいい会話になっていく。だいぶ仲良くなったら、仕事の話だけじゃない話もちらほら出たりして、「今度ご飯でも」、なんて言っていた社交辞令がいよいよ本当になって一緒にご飯を食べに行ったりして。そんなこんなで仕事を超えた友人になる……。ここまで来てしまうと、「ハジメマシテ」と「サヨナラ」のことばは消えてしまいます。それはある意味当たり前というか、もし人と関わっている時、「ああ、この人とは◯年前に出会ったんだよな」とか、逆に「ああ、この人ともいつかお別れか」なんて考える人はいません。いたらちょっと変わった人です。でも、実際はそうです。そこに人生の不思議があります。

「サヨナラ」という味わい

また妹とのちっちゃな「サヨナラ」の話に戻ります。僕は今回、久々に(小さいとはいえ)「サヨナラ」をする中で、少し面白いなあと思ったことがあります。というのは、「サヨナラ」を意識するようになってから、日常の景色がほんの少し変わったんです。

それまで何の気なしにつくっていたドライカレーを「ああ、これが妹につくる最後のドライカレーか」とか思ったり、夜中のおしゃベりも「ああ、こんな風に二人でしゃべることはもうないんだろうな」と思ったり。当たり前だと思っていたものが、「サヨナラ」を意識することで、ゆっくり、でも確実に見え方が変わりました。

妹の引っ越しの前日には、初めて近くのお好み焼き屋さんに行きました。普段、お好み焼き屋さんなんて行かないのに、ソース味のものが食べたいという話になり、土曜日の夕暮れ、歩いてお好み焼き屋さんに行きました。なんてことない夕食です。ふわふわのお好み焼きができて焼いていた僕がテンション上がったり、テンション上がったせいでドリンクバーのメロンソーダ服にぶちまけて妹に笑われたり、「おごるから財布持たなくていいよ」って出る時カッコつけて言ったら財布にお金なくて、妹にお好み焼き屋で人質になってもらって急いでコンビニにお金下ろしに言ったり。ちょっと僕のドジエピソードが多めではありますが、本当になんでもないお好み焼き屋さんでの風景です。でもその時間は確実に特別なものだったと言えるし、人生を振り返った時に思い出す時間だったと思います。

そのことを思うと、なんとなく「サヨナラ」のちからを感じます。ああ、サヨナラって人生を味わうためにあるんだって。サヨナラがあるから人生で、人生があるからサヨナラがあるんだって。

「サヨナラ」まみれの人生で

最初に話した通り、すべての人間関係にはサヨナラがあります。でもだからこそ、人との出会いって特別で、ハジメマシテが尊いのは、そこにサヨナラがあるからだと思うんです。

「サヨナラ」まみれの人生をどう思うかは人それぞれです。嫌だと思う人もいるかもしれない。でも僕は美しいと思う。サヨナラって、美しくて、儚くて、つらくて、素敵です。そう思います。

ということで……

ということで、でもないのですが、実は今回でこの連載は最終回です。どれだけの方に読んでもらえたのか、正直自信はありません。普段台詞ばかり書いている自分にとって、等身大のことばで自分のことを書くというのは、とても難しくて、でも楽しい経験ではありました。いわゆるバズるとか刺激とは真反対の、なんでもないところを面白がるコラムではありましたが、楽しんでくださった方が一人でもいたら嬉しいです。

またお会いできるのか定かではありませんが、ここでの小さな「サヨナラ」がまたどこかに通じていると信じて。元気にお別れできたら嬉しいです。それでは、またその日まで。

さようなら。

 

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