【今週のことばたち#30】素晴らしいものは、誰のものでもないものだ(長田弘)

特集

【今週のことばたち#30】素晴らしいものは、誰のものでもないものだ(長田弘)

特集

好きな夕暮れの話をします

こんにちは。8月も3週目に入りましたが、皆さんいかがお過ごしでしょうか? いよいよ夏真っ盛りといった感じで、明るい日常が開けていたらいいなと思いつつ、社会情勢的にはまだ難しい状況なのかもしれません。

個人的な話題に移ります。実は先日もお話していた引越しが無事、終わりました。今までは東京の東のはてに住んでいたのですが、今度は東京の西のはてに住まいを移しました。これまでは妹と住んでいたのですが、今回は一人暮らしです。兄弟仲が凄くいいと思っていたわけではないのですが、一人で過ごす時間は随分とのんびり・ぼんやりしていて、なんだか持て余してしまっています。じき慣れるのだろうなと思いつつ、今だけの変な時間感覚を満喫するつもりです。

引越しの話をしたから、というわけではないのですが、引っ越しして残念なことの一つが、とある夕暮れの風景とお別れになってしまったことです。よく晴れた日の夕方。僕は自転車で5分くらいのスーパーに夕飯の買い物に行きます。リモートワークでバリバリ働く妹の様子をうかがい、妹のリクエスト(キムチ鍋、油淋鶏、豚汁、ドライカレー等)をベースにして考えた献立の材料を頭で反芻しながら、自転車を漕いでスーパーへ行きます。そんなスーパーでの買い物の帰り道。僕はあえて自転車を引いて帰ります。徒歩のスピードでしか見つけられないなにかを見るためです。そんな感じでのんびり歩きながら家に向かっていくと、住宅街の中にある交差点を通りかかります。もう少し行くと我が家に到着です。そして……。ここです。この交差点で立ち止まったとき、目の前に見える夕暮れが大好きなんです。右側にはそろばん教室をやっている一軒家のお宅があって、左側には小さな団地のような集合住宅があります。その間から見える赤く赤く染まった夕暮れ。遠くからは子供たちの「バイバイ」の声が聞こえて、新聞の夕刊を運ぶバイクの音なんかもします。ああ、なんていい夕暮れなんだ。何度そう思ったかわかりません。

なんでもない夕暮れです。くだらない夕暮れです。ですが、僕はこの夕暮れが大好きで、この夕暮れを見られなくなった今、ほんの少しさびしいというか、かなしいというか、小さな穴が心に開いた気分です。そして今日は、一つの名言から、僕にとってのこの夕暮れを、皆さんにも思い出してもらえるような、そんな話をしてみたいと思います。

今週の名言は……

今週の名言は、詩人・長田弘(おさだひろし)が『世界は美しいと』という詩集の「なくてはならないもの」という詩の中で書かれた一片のことば「素晴らしいものは誰のものでもないものだ」です。

長田弘は、1939年生まれの詩人で、2015年に死去しています。日常の美しさや尊さを丁寧にていねいに詩にしてきた方で、個人的に本当に大好きな詩人の一人です。

そんな日常の詩人である長田弘さんが残したことばこそ、今週の名言です。

「素晴らしいもの」ってなんだろう

長田さんは、この名言の中で、素晴らしいものは誰のものでもない、と言っていますが、そもそもこの「素晴らしいもの」ってなんでしょうか。もちろん、一人ひとりにとって、素晴らしいものは違うと思います。ある人にとっては、ブランド品のバッグだろうし、ある人にとっては、パートナーから貰った手袋かもしれない。モノだけではありません。さっき言ったような夕暮れの景色も素晴らしいものに入るでしょうし、家族との海での想い出、なんかも素晴らしいものに入りそうです。せっかくなので、今の僕にとっての素晴らしいものをちょっと書き出してみます。

昼寝、夜食、紅茶、チボリのオーディオ、目薬、引越し先にも持ってきた植物、朝の陽の光、数年前の誕生日、ベッド、将棋の中継、パブロ・カザルスのチェロ、ビル・エヴァンスのピアノ、履き心地のいいルームサンダル、夜にだけつけるライト、脚本の初稿を書く前の真っ白のパソコン画面、アイデアのメモをぎっしり取ってあるアプリ……。

多分、やろうと思えばいくらでもやれるのですが、ひとまずこれくらいで止めておきます。他の方との比較ができないのでなんとも言えませんが、比較的、日常そのものが豊かになるようなものが多いのかな、と思いました。これを読んでくださってる方はどうなんでしょう。もしよければ、やってみてほしいです。

少しそれました。こんな感じで、どんなものでも包み込んでしまう「素晴らしいもの」ということばですが、長田弘はそんな「素晴らしいもの」は「誰のものでもないものだ」と言っています。これはどういうことでしょうか。

本当に素晴らしいものは、いつでも手に入るし、一生手に入らない

いきなり結論めいたことを言ってしまいますが、きっと長田弘は、各々の素晴らしいものを否定したくてこのことばを残したわけではないと思うんです。でも、「本当に」、本当に素晴らしいものは、誰のものでもない、誰かの所有になるようなものではないと言ってるのではないでしょうか。

それはきっと、いわゆるモノではない。夕暮れの赤であり、コンクリの道端に咲くたんぽぽの勇敢さであり(たんぽぽは手に入っても、勇敢さは手に入らない)、木漏れ日の揺れであり、蛙の鳴き声であり、電車でのうたた寝であり、星の瞬き、空の青さ、なんだと思います。これらは誰のものでもありません。だから、一生手に入りません。でも、空の青さは誰のものでもないですが、その青さを感じるには、上を見上げればいいだけなのであって、ある意味いつでも手に入る、とも言えます。そして、長田弘はこの、「いつでも手に入るし、一生手に入らない」そのことも含めて、本当に素晴らしい、と思っていたような気がします。

ということで……

まとめに入ろうと思ったのですが、書いていてふと思いました。誰のものでもない、一生手に入らないけど、いつでも手に入るもの。それって、世界そのものじゃないかって。僕たちはこの世界という場所で活動していますが、極端なことを言ってしまえば、200年後、300年後には誰もいなくなってしまいます。かなしいことのようにも感じますが、それは世界が定めた摂理のひとつです。僕たちはこの世界で、様々なことができます。辛いこと、しんどいことを味わうことはありますが、素晴らしいこと、幸せなことだってあります。ああ、そうか、もしかすると、この世界そのものが、長田弘のいう「素晴らしいもの」なんじゃないか。ふと、そう思いました。

こんなに理不尽で、不条理で、汚い世界が素晴らしいわけない。そういう方もいるかもしれません。僕もそう思います。でも、きっと世界は、それが在る、ここで生きている、それ自体が明るい、素晴らしいこととも言えるかもしれないとも思うんです。ずっとこの世界にいなくて、一瞬だけ世界にいて、そのあとすぐに消えていなくなる。一瞬のあぶくのようなこの生は、どんな意味であれ、素晴らしい、もしかしたら、そうなんじゃないかって思うんです。

思ってもみないところまで来てしまいましたが、ここでお話したかったのは、素晴らしいものを見つめようとする大切さです。世界は厳しくて、苦しくて、かなしいです。でも、きっと素晴らしいものはそばにあります。そのことをこの詩の一片から感じてもらえたら嬉しいです。

人気記事Ranking
  • 月間

  • 週間

  • すべて

menu

したい・ほしいを探す

したい・ほしいを叶える