【今週のことばたち#29】笑われて、笑われて、つよくなる(太宰治)

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【今週のことばたち#29】笑われて、笑われて、つよくなる(太宰治)

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授業で手を挙げる子供でした

こんにちは。8月に入り、皆さんどんな日々を過ごされているでしょうか? 僕はと言えば、一応新米の脚本家として脚本を書く日々で、この書くという行為を通して、世界に向けて、社会に対して自分をさらけ出すということに、なんとも言えぬ怖さと楽しさを感じている日々です。

そんなことを感じていると、思い出すのが、小中学校の頃の授業です。学校の授業って、今思うと結構特殊だと思っていて。例外はあると思うのですが、ほとんどの授業で、「これ分かる人ー?」って聞かれるじゃないですか。それで、子どもたちの側は、手を挙げる子と手を挙げない子に二分される。分かっているのに挙げない子も多い中、僕はどちらかといえば、分かってなくても手を挙げてしまう子どもでした。

これまでの連載を読んできて下さった方からすると、意外な感じもするかもしれませんが、たしかにそうでした。手を挙げる子どもでした。断じて運動神経バツグンのモテ男君ではありませんでしたが、授業や学校行事の機会では、出たがりというか、表に出るということを怖がらない、むしろどこか楽しむところがあった気がします。

そして、今振り返ると、僕自身のこの「手を挙げてしまう子どもだった」という事実が、今、無謀にも脚本家という看板を掲げ、不安定の極地、どこにも所属しない孤独なフリーランスとしてのんきに生きていられるヒントというか、コツがあるような気がするんです。今日はそんな、少しおバカな生き方、でもそのおバカさの大事さに着目してみたいと思います。

今週の名言は……

今週の名言は、あの文豪・太宰治が残したことば「笑われて、笑われて、つよくなる」です。

太宰治は、(もはや説明不要かもしれませんが)日本を代表する小説家であり、『人間失格』や『斜陽』、『走れメロス』や『津軽』など、誰でも一作品は読んだことがあるのではないか、というくらいに広くその存在が知られている文豪の一人です。

どこかアンニュイで、その最期のエピソードなどから、悲しい人というイメージもありますが、今回の名言をはじめ、どこか明るさを内包する、前向きなことばや作品も数多く残している作家だといえます。

今週は、そんな多面的な要素を持った文豪・太宰治のことばを深堀りしていきます。

ツッコミ社会に生きるということ

何年前か分かりませんが、一億総ツッコミ社会、ということばを見かけたことがあります。どこかの芸人さんが言っていた記憶があるのですが、定かではありません。要旨としてはこうでした。今の社会はSNSなどの発達により、人に対して指摘すること、ツッコむような機会が格段に増え、生活する人のほとんどがツッコミ側になってしまって、ボケがいなくなってしまった、という話でした。僕はこの話を聞いたとき、凄く「なるほど」と思って。

というのも、昔の世代に思いを馳せると、今よりももっと怪しい人たちがウロウロしてただろうし、フーテンの寅さんのような人もたくさんいて、ホラ吹きの人ももっと居たような気がするんです。もちろん、詐欺や人に迷惑を掛ける行為、人権を蹂躙するような行為や言動を取り締まるのは正しいことですが、どこかで、「全てを正しくなくては」という気分になってしまっているのも事実です。

そして、「正しくなくては」という空気や気分、それはすなわち、「笑われたくない」というものを動機としているような気がします。人に見られたとき、変な目で見られたくない、変わった人だと思われたくない、バカにされたくない。ニュアンスの違いは数あれど、要は「笑われたくない」というところに帰着するような気がします。それは大人だけではありません。きっと、小学生の中でも、「笑われたくない」という気分は蔓延しており、最初の話と併せて言うのであれば、「手を挙げてバカにされたくない」という人は、きっと多いのではないかと思います。

笑われるということ

そんな世界に生きている僕たちです。笑われるのは、一番怖いことの一つとなりました。ご近所に笑われるだけではありません。SNS等を通じて、一瞬にして世界から笑いものにされるかもしれない。ああ、だったら前に出るのはやめよう、こっそりと生きたいよ。そう思ってしまうのも仕方ありません。……ですが、それにNOを突きつける偉人がいます。それが、太宰治です。

名言にあるとおり、太宰治は、「笑われて、笑われて、(人は)つよくなる」と言っています。きっとここで言っている笑いは、必ずしも前向きな笑いだけではありません。嘲笑のような笑い、すなわち、現代の僕たちがもっとも恐れている類の笑いを想定しているといえます。それでも太宰治は言います。笑われなさい。笑われて、笑われて、つよくなりなさいと。

しなやかなつよさのために

ここでいう「つよさ」というのがどんなつよさなのかは明確ではありません。ですが、僕はここでいう「つよさ」というのは、いわゆるマッチョであること、力を持っていること"ではなく"、むしろ、その真逆の在り方としての「つよさ」を示しているような気がするんです。それはすなわち、「しなやかさとしてのつよさ」であり、「やわらかさとしてのつよさ」です。

笑われてしまうこと、それはすなわち、下の立場に追いやられること、上から目線で見られる、ということにほかなりません。ですが、実際に下の立場なのか、笑っている相手は上なのかといえば、断じてそうではないはずです。笑われた、ということは、なにかをやってのけた何よりもの証拠です。無謀な挑戦や人がまだやっていないチャレンジングな表現の結果です。それは周りから見たら嘲笑や揶揄の対象かもしれませんが、その人の人生を広げる、豊かにする行為としては、必要不可欠なものです。そうした行為によって、笑う人はいるかもしれませんが、そうした人の視線を怖がらず、微笑みを絶やさずに受け流せるようになること、そして自分自身はひたすら挑戦を続けられるようになること。それこそが太宰治が「笑われる」ことで掴んでほしいと思っていた「つよさ」なんじゃないかと思います。

味わい深い人生に向けて

そして、ここまで話してきた「しなやかなつよさ」って、今の社会において、自由に生きるために、好きに生きるために必須な力だと思うんです。相手にどう思われるかは気にせず、微笑みを絶やさずに、ひたすらに好きなこと、大切なことを守る生き方を送るには、笑われることで手にするこの「つよさ」が必要なはずです。それを手に入れるのは、決して簡単な道のりではないはずです。ですが、その景色はきっと楽しい。それは断言できます。なんの障害もない人生よりも何倍も豊かで、味わい深い人生になるはずです。

ということで……

ということで、今日は太宰治のことばから、今の社会を生きるための、生き方について考えてみました。これからもし、周りに笑われる機会があったら、ぜひ今日の名言を思い出して下さい。笑われた事実は、自分が挑戦した証拠であり、しなやかなつよさを手に入れるための機会であることを、あの太宰治の微笑みが思い出させてくれるはずです。

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