【今週のことばたち#18】俺は議論はしない、議論に勝っても、人の生き方は変えられぬ(坂本龍馬)

特集

【今週のことばたち#18】俺は議論はしない、議論に勝っても、人の生き方は変えられぬ(坂本龍馬)

特集

雑談してますか?

こんにちは。3月に入り、まだまだ寒い時期だとは思いますが、きっと少しずつ春の訪れを感じたりもしているのではないでしょうか。

僕はと言えば、相変わらず細々とではありますが脚本のお仕事を続けていて、大好きな「会話を書く」ことに日々向かい合っています。あ、そういえばこのコラム内で詳しくお話したことはなかったですが、僕はとにかく「会話を書く」のが好きです。もっと言えば、「雑談を書く」のが好きです。普通の映画やドラマではなかなか出てこないようなストーリーとは大して関係のない会話を書いているときが一番幸せで、そうした会話を書いていると「あぁ、生きるっていいなぁ」と思ったりします。

何言ってるんだと感じている方も多いかもしれませんが、今回の話はそうした雑談の価値を再考することにもつながるお話になるんじゃないかなと思って、このことを書いてみました。ということで、早速今回のコラムの本題に入っていきます。

今週の名言は……

坂本龍馬が残した名言、「俺は議論はしない、議論に勝っても、人の生き方は変えられぬ」です。

坂本龍馬といえば、もはや説明は不要かもしれませんが、僕と同じく日本史はちょっと苦手で……という方に向けて、ほんの少しだけどんな人だったのか振り返ってみます。

坂本龍馬は、1836年の生まれで土佐藩の郷士(武士の下の方の階級らしいです)の家に生まれました。脱藩したあとは、志士として活動し、後の海援隊となる組織を作り、最終的に江戸幕府を倒すきっかけを作ったようです(ざっくりで申し訳ありません)。もうとにかく坂本龍馬と言えば日本のヒーローで、僕が中学か高校のときにも坂本龍馬の生涯を描いた小説である『龍馬伝』を読んでいたクラスメイトが何人もいました。

そんな全世代に人気のある歴史上の人物・坂本龍馬が残した名言が、今週のことばです。

議論ってなんだろう

この名言を知ったとき、まず一番に思ったのは、「江戸幕府を倒すきっかけをつくるような、政治活動を推し進めた坂本龍馬が議論をしないなんてあり得るのか」ということです。政治といえば、ことばによって仲間を増やす営みです。そこには議論が必ずつきものではなのでは、と思ったんです。

まずはことばの意義を掴もうと、手元の国語辞典(精選版日国)を開いて「議論」を調べてみます。すると「互いに、自己の意見を述べ、論じ合うこと。意見を戦わせること。また、その意見」とありました。

うん。やっぱり政治に必要なことだな、それをしないと言ってしまう坂本龍馬ってどうなんだ……と思ったその時でした。「人の生き方は変えられぬ」という末尾のことばが目に入りました。生き方というのは、いわばプライベートな部分、政治の議論の土俵に上がる公共的なこととはかなりかけ離れています。となると、そもそも坂本龍馬がここで言っている「議論」というのは、政治的な「討論」のようなことを指しているのではなく、往々にして口喧嘩になってしまうような、非公式なルールのない、聴衆もいない、そうした「言い合い」のことを指しているのではないかと思うに至りました。

そう考えると、今まさに現代社会で問題になっている、ある出来事と結びつきます。「SNS」です。

SNSでの「議論」について

僕たちは普段から多くのSNSに触れて生きています。そうした中で、あまり幸せとは言えないようなSNS上での「議論」を目にすることがあるはずです。そこに使われていることばは、鋭利で、ときに歪曲しており、何より批判の対象が意見ではなく個人になってしまっていることがしばしばあります。

SNSは相手が見えません。そもそも本名や顔を出していない場合が多いですし、仮に名前や顔が分かったとしても、その奥にある「議論」をしているときの相手の顔は一切見えません。声も聞こえません。あるのは表面に見える文字だけです。そうなると、見えない「文脈」は切り捨てられ、結局、声が大きい人、自分を顧みなず意見を絶対に変えない人が勝ってしまうことが往々にしてある。

こうした状況で果たして健全な討論ができるのかと言われれば、それは難しいと言わざるを得ないような気がします。これからもっとインターネットやSNSが発達して、デジタルネイティブを更に超えて、デジタルと直接つながっているような人類が生まれればまた別だとは思いますが、まだ100年も経っていない、人類にとってあまりにも未知なインターネット/SNSというものを使って、コミュニケーションを進めるのはそもそもかなり難しいことのような気がしてしまいます。

「議論のことば」と「雑談のことば」

普段、雑談ばかり書いている身からすると、やはり議論として用いられることばって、意味が強いし、大きい傾向があると思います。もちろん、実際問題として、現実を動かしていく上で人と議論を戦わせ、それに勝つことは時に必要だし、そのためのことばを学ぶこともまた必要だと思います。

ですが、「議論のことば」「現実のことば」ばかりを磨いていってしまうと、その強さ、大きさという特性から、「雑談のことば」「日常のことば」までそうしたことばに侵食されてしまう気がするんです。〜すべきである、〜はすべきではない。〜は過ちである、〜は許されない。こうした一連のことばが日常や雑談を圧迫してしまうと、ゆっくりと人間の持つ本来の明るさや柔らかさのようなものがどこかへ逃げてしまうと思ってます。

どっちのことばが正しくて、どっちのことばが誤っている、ということではありません。ただ、純粋にそのことばに向いている場所があって、その持ち分の中で適切にことばが使われた方がいいんだろうなって思うんです。

「議論のことば」と「雑談のことば」。「現実のことば」と「日常のことば」。大した切り分けではないですが、自分の日々を見つめ直すときに、ことばの居場所がちゃんとそれぞれの場所にいるのかを気にするのは、悪いことではないはずです。

ということで

ということで、今回は坂本龍馬の議論に関する名言から、SNSでの「議論」や、ことばの居場所についての話まで色々してしまいました。まとまりがなかったかもしれませんが、言いたかったのは「怖い顔ばかりしていないで、たまにはくだらない雑談もしてみませんか」ということです。こうしたご時世なのに、と思うこともありますが、こうしたご時世だからこそ、とも言えます。

坂本龍馬は名言の通り、「議論では生き方は変えられない」と言っています。ではどんなことで生き方は変わるのか。明快な答えを持っているわけではありませんが、一つ思うのは、今回ずっと話してきた雑談や他愛もない一言であったり、ふと自分の中に飛び込んできた偶然のことばこそ、実は生き方をつくっているのではないかということです。無駄な時間に生まれる吹けば消えてしまうような小さなことばにも耳を傾けてもらえたら嬉しいです。

なのでぜひ、今日はいつもより少し雑談を多めにしてみて下さい(先生や上司の人に怒られない程度に)。

人気記事Ranking
  • 月間

  • 週間

  • すべて

menu

したい・ほしいを探す

したい・ほしいを叶える