【今週のことばたち#17】控え目であるためには、その前になにかに立ち向かうことが必要です(オードリー・ヘップバーン)

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【今週のことばたち#17】控え目であるためには、その前になにかに立ち向かうことが必要です(オードリー・ヘップバーン)

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もうすぐ春ですね

2月も半ば過ぎとなり、まだまだ寒い毎日だとは思いますが、暦で3月が近づいてくるだけでなんとなく春を感じるのは僕だけでしょうか。これを書いている今は12月半ばで、いよいよ年末感がひたひたとやってきているくらいです。寒さについても「こりゃあ寒い!」って昨日ちょうど思ったところです。何の話をしているのかよく分かりませんが、とにかくもう少しで春が来ると思うと、羨ましいです、ということをお伝えした次第です。

こうして文章を書くような仕事をしていると、人が苦手でさぞかしコミュ障なのだろうと言われがちなのですが、実はそうでもありません。いえ、正確に言うと元々は人と関わるのがあまり得意ではない人間なのですが、最近なぜか人と会うのが億劫ではなくなってきたんです。フリーランスでいよいよ孤独が寂しくなってきたのか、はたまた純粋に大人になって人の色んなことを許せるようになったからなのか。理由は分からないのですが、お仕事をしていく上で新しい人と会う時間が一番ワクワクするし、前と比べて無理せず会話を楽しめるようになりました。今日はそんなコミュニケーションの話をしてみたいと思います。

世界で一番美しい人

今日の名言を残したのは、その内面も含めた美しさで世界的に有名な女優、オードリー・ヘップバーンです。名前だけでなく、その容姿も著名で、おそらくオードリー・ヘップバーンの映画を観たことがない人でもなんとなく顔も含めて知っている人も多いのではないでしょうか。

僕も決して詳しいわけではないのですが、オードリー・ヘップバーンが主演の『ローマの休日』を初めて観たとき、全体のストーリーやお話自体に胸を打たれたのはもちろんなのですが、何よりオードリー・ヘップバーンの美しさに感動しました。映画をご覧になったことがある方は共感してもらえると思うのですが、オードリー・ヘップバーンの内面も含めた圧倒的な美しさと、無邪気で柔らかな可愛らしさと、どこか機微を感じるその眼差しに「こんな人がいるんだ……」とびっくりしたのを覚えています。

そんなオードリー・ヘップバーンが残したことばの一つが、「控え目であるためには、その前になにかに立ち向かうことが必要です」です。

「控えめ」という美しさの困難

小さい頃から「謙虚に生きなさい」としつけられてきました。ゆとり世代ど真ん中で、まだ若い世代に分類されるである僕ですらそうだったので、きっとこの「謙虚」や「控えめ」というのは日本人にとって大きな美徳だったんじゃないかと思います。ただ、単なる実感ではあるのですが、最近この「謙虚」や「控えめ」についての言説を聞くことが少なくなった気がします。もちろん、要所要所では耳にすることもありますが、基本的にはアピールの大切さであったり、言語化の重要性であったりと、自分をちゃんと表に出していくための技術や思想が広がっているような気がします。

それが悪いというわけでは全く無くむしろ必要なことだと思うのですが、一方で存在していた「控えめ」であることの美しさはどこへ行ったのだろうという純粋な疑問が残ります。ここで少し考えてみると、世界が自己主張の方向にいけば行くほど、「控えめ」は気づかれなくなってしまうという当たり前の事実に気づきました。「控えめ」であるということはすなわち、「無」です。なにもしないからこそ控えめなのであって、目立ってしまう控えめな態度というのは基本的にはないはずです。そう考えると、今の時代において「控えめ」の美学を貫くことはとても困難であることが分かってきます。

「控えめ」と「なんでもいい」の違い

それでも控えめでありたい、控えめであることの美しさを目指したいという人もいると思います。そうしたことが可能なのか……と思った時、このオードリー・ヘップバーンが残したことばがヒントになるのではと思いました。

オードリー・ヘップバーンは前提として控えめであることを美徳と認めています。ただ、そうした控えめな態度でいるためには「その前になにかに立ち向かうことが必要」と、戦うこと、向き合うことを推奨しています。控えめになるために戦う……一見両者は明らかに矛盾しています。ですが、この矛盾を取り込むことこそがオードリー・ヘップバーンにとっての控えめの美学だったのだと思います。

目の前に一人の人がいます。この人はとても物静かな人で自己主張をしません。一見すると、この人は控えめな人なのか、はたまた何の意見も持っていない人なのか、全く分かりません。ですが、きっとこの二人には大きな差があって。もしこの人が本当に控えめな人ならば、何かを強要されたり、意にそぐわないことを求められたりした場合、静かにでも毅然とNOと言うと思うんです。一方、何の意見もない人は元々の意見がないので、求められたことになんでも応じてしまいます。ここに控えめな人と何でもいい人の違いが現れます。このように見ていくと、控えめであるということは、人への応対の際に静かであること、声を荒らげないことの美徳のことであって、心の内に秘めた想いや考えは自己主張する人と同等、あるいはそれ以上のものがきっとあるということに気づきます。

当たり前のようだけど

ここまで僕が書いてきたことを当たり前のことだ、と言う方もいらっしゃるかもしれませんが、果たして本当にそうでしょうか。自分の確固たる意見を持ちながら、それを軸にしなやかに控えめに生きることができる人がどれだけいるのだろうと想像してみると、その難しさを実感します。今、僕たちの世界にはなんでも攻撃する人と、どんな攻撃も受け止めてしまう人と二分されてしまっている気がします。ここで考えたいのは攻撃を受け止めてしまう人です。

現代には、根拠のない無意味な攻撃をしてくる人がいます。それはとても悲しいことですし問題だとは思います。ですが、少なくとも言えるのはそうした攻撃を相手にする必要はないということです。ただ、単に「優しい人でいないと」、「人の言ったことは受け止めよう」という態度でいてしまうと、相手は攻撃をやめません。きっと、小さく傷ついていくあなたにもっと刃を向けてくるはずです。これはおかしい。本当は攻撃をする人が悪い。これは紛れもない事実です。ですが、その人が攻撃をやめてこない時、やはりあなたは立ち上がり、声を上げる必要があるんだと思います。大きな声でなくてもいいですし、何なら具体的なことばでなくてもいいかもしれません。ですが、心の中で私の想いや考えを持ち、相手に対して毅然と立ち向かう必要があるんだと思います。そうすることではじめて、「控えめ」であることの美しさは保たれるのだと思います。

ということで

ということで。今週はオードリー・ヘップバーンのことばを取り上げ、控えめであることの美しさと困難について考えてみました。ここから春に向けて、様々な出会いや別れなど、多くのコミュニケーションが生まれてくると思います。そうしたときにふと、このことばを思い出して、なにかに立ち向かうときの拠り所になったら嬉しいです。

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