【今週のことばたち#14】一つずつの小さな現在が続いているだけである(宮沢賢治)

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【今週のことばたち#14】一つずつの小さな現在が続いているだけである(宮沢賢治)

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明けましておめでとうございます

新年、明けましておめでとうございます。明けない年はないとはいえ、やっぱり新年になると少し気持ちが引き締まって、清々しい気分になるのではないでしょうか。……と言いつつ、僕は11月末にこの文章を書いています。今日は11月だというのに、春がやってきそうな暖かい日で、なんだか変な気分です。

そんな昼下がり、今日は都心のちょっとおしゃれなカフェにいます。普段は部屋に引きこもって静かに暮らしているのですが、今日は予定があり都心まで出てきました。目の前の席ではいかにもお似合いな(どうやら同棲しているらしい)20代のカップルが二人で話をしています。

「ねえ」「ん?」「こんな近くに映画館あったんだね」「え、そうだよ」「こんな家(ウチ)から近いならもっと前から来ればよかった」「知らなかったの?」「でも今日知ったし。いっぱい来れるね、これから」「うん」

全て盗み聴きしてしまうのは良くないことなので、漏れ聞こえてきたその会話だけをそっと胸にしまい、イヤホンをして今この文章を書き始めました(漏れ聞こえてくる会話に耳をそばだててしまうのは、脚本家の性(さが)なのかもしれません。カフェでおしゃべりをするときは周りに脚本家がいないか確認することをオススメします)。

なんでたまたま聞いた会話なんかつらつら書くんだよ、と思った方もいるかもしれません。ですがそれは、今回扱いたい名言とお似合いカップルの会話が地続きでつながっていると思ったからです。

宮沢賢治という人

新年、1回目に取り上げたいのは、あの有名な宮沢賢治が残したことばです。

宮沢賢治といえば、『雨ニモマケズ』を始め、詩人として著名で、日本人であれば誰しもが知っている作家です。農業との縁も強く、なんとなく宮沢賢治というとロマンチックでありながら、自然や畑のようなものに根ざした力強い作品をイメージしてしまいます。

そんな宮沢賢治が残したことばが今日扱う名言、「一つずつの小さな現在が続いているだけである」です。

「現実」と「現在」の違い

僕がこのことばを初めて知ったとき、面白いなと思ったのは「現在」ということばです。特に目新しいことばというわけではないのですが、一般的に今、生きている世界や特に社会の方を指すときに使われることばは「現実」なのではないかと思います。例として挙げるとするなら、「現実を見ろ!」みたいな若干お説教めいたことばが挙げられます。ここで「現在を見ろ!」という人はいないはずです。そして、だからこそ、この名言であえて「現実」ではなく、「現在」ということばが使われていることに意味があるような気がします。

僕たちは生きていると、とかくこの「現実」の方を意識してしまい、案外「現在」の方は見過ごしがちな気がします。「現実を見ないと……」、「現実は甘くないから……」ということばが持つ力は非常に強く、こうしたことばによって僕たちの心は小さく押し込められがちで、子どもたちの明るい夢を奪うのもこうした「現実にまつわることば」のような気がします。そう考えると、やはり「現実」ではなく「現在」ということばには何か奥がありそうです。

仏教と「現在」について

宮沢賢治といえば、仏教にも強い関心を持っていたことで知られています。幼い頃からお寺との関わりもあったようで、宮沢賢治という人のことばや詩にはこの仏教的な思想が色濃く反映されているようです。そうした視点で今回の名言を眺めると、少し違った視点で考えることができます。上でも述べたとおり、一般的には「現実」ということばがよく使われますが、むしろ仏教や哲学といった思想関連の問題の中では「現実」よりも「現在」ということばの方が論じられる事が多いです。「現在とはなにか」といった根本的な問いはもちろん、未来や過去との対比としての「現在」というものが今でも熱心に検討されています。

このエッセイではそうした哲学的な議論に踏み込んでいくことは難しいですが、一つ仏教的な視点でこの「現在」について押さえておくとすると、仏教的には過去・未来・現在の三世のうち、過去は「現在」の原因、未来は「現在」の結果として、現在を起点に考える発想があるという部分が重要ではないかと思います。というのも、今回の名言はまさにこうした三世の考え方をベースにして生み出されたことばだと考えられるからです。

全ての源としての「現在」

そもそも未来や過去なんてない。あるのは現在だけだ、という議論もあるくらいですから、現在の持つ力というものはとんでもないものだと思います。ですが、僕たちの日常感覚に合わせ、未来や過去というものが存在してもなお、やはり現在というものの価値は揺るぎないものだと思います。

まず、僕たちが直接変えることができるのは、「現在」だけです。過去に行って変化を与えることもできないし、未来に行ってなにかを先に知ることもできません。ですが、僕たちは今、この「現在」であればなんでもすることができます。冷蔵庫に行って買っておいたマンゴージュースを飲むこともできれば、枕元にある漫画を読むこともできる、今ちょうど書いているエッセイを一旦やめて寝てしまうこともできる……(それはしませんが)。膨大な過去と膨大な未来にサンドイッチされている一瞬としての「現在」。そう思うと、何の力もないように思えますが、この「現在にだけは変化を与えることができる」という点で、やはり「現在」というものは、特別なものだということが分かってもらえるのではないかと思います。そうした変化を作れる「現在」だけが、(上で述べたとおり)現在の原因としての過去と現在の結果としての未来を生み出しているというわけです。

小さな「現在」の偉大さ

そして、宮沢賢治はまさにこの小さくて、だけど偉大な現在というものを示すために今回の名言を残したのだと思います。現在は一つずつの小さな粒のように僕たちの前にやってきます。ですが、僕たちが変化を与えることができるのは、その一つずつの小さな現在だけです。この一つずつの現在にこまめに働きかけ続け、結果として連なるのが過去と未来であり、それを俯瞰して眺めたものが人生と呼ばれるものになるのだと思います。

きっと宮沢賢治は、無名の日々を過ごしながらも、名を上げようと未来だけに躍起になっている人々や過去に囚われ今を呪われてしまった人々を見て、そっとノートにこの名言をメモしたのではないかと思います。その洞察力と、心の美しさは計り知れません。

ということで

新年一発目にしては、少し小さな、静かなことを書いてしまいました。ですが、人生における劇的な出来事やドラマチックな事件も全て、この幾重にも連なる小さな現在の中で起きるシーンの1つに過ぎません。

アクセルを踏みすぎず、目の前にある現在を大切に、(先ほどまで僕の目の前にいたお似合いカップルのように)なんでもないことを楽しみながら過ごせたらきっといい一年になるような気がします。まずはお休みの日に、近くに映画館がないか散歩して探してみて下さい。

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