【今週のことばたち#12】パリでは誰もが役者になりたがり、見物人に満足するものはいない(ジャン・コクトー)

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【今週のことばたち#12】パリでは誰もが役者になりたがり、見物人に満足するものはいない(ジャン・コクトー)

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冬はルイボスティーの季節です

こんにちは。12月に入りましたが、いかがお過ごしですか? このコラムを書いている今は10月半ばなのですが、いよいよ気温も10℃台になり、冬が近づいていることを実感しています。朝、布団から出るのが辛くなってきて「もう一生このままでいたい……」と思うようになると、冬本番といった感じですが、きっと12月はもうそんな季節になっているかと思います。

寒さが苦手な人は多いかもしれませんが、個人的には(以前も少し書きましたが)結構好きな季節です。コートやマフラーに身を包み、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んで歩くと気持ちいいですし、クリスマスや大晦日はどこか現実から半歩浮いてしまっていて、ロマンティックです。そして何より、あたたかい飲み物が美味しいです。特にルイボスティー。いつルイボスティーを知ったかは記憶にないのですが、紅茶でも烏龍茶でもないそのお茶の後味が好きで、今もこれを書きながら通販でちょっとだけ奮発して買ったルイボスティーをお気に入りのカップに入れて飲んでいます。

……すみません。脱線が過ぎました。そんな大好きな冬という季節に想いを馳せたとき、浮かび上がってくる街があります。パリです。

パリの冬

パリといえば、花の都。無機質なベージュっぽい建物の連なりは夢のようで。街の至るところに書店とカフェや映画館があります。常時たくさんのところで舞台もやっていて……。本当に素敵な街です。そんなパリは一年を通じてきっと素敵だろうし、むしろ観光としては夏から秋に行くのがメジャーなのかもしれません。ただ、なぜ僕が冬とパリを結びつけてしまうかというと、理由は単純で初めてパリに訪れたときの季節が冬だったからです。

街には雪が舞っていて、通りかかった公園にあるメリーゴーランドには誰も乗っていませんでした。遠くに見えるエッフェル塔はシャンパンのように光っています。「あぁ、ここがパリなんだ」と心から感動しました。初海外&安旅行だったので、不安まみれでしたし腹痛や腰痛に悩まされたりもしたのですが、パリでの一週間は本当に最高でした。

今日は、そんなパリにまつわることばをご紹介します。

パリでは誰もが役者になりたがり、見物人に満足するものはいない

このことばを残したのは、生粋のパリジャンであるジャン・コクトー。その肩書は一言で説明しきれず、詩人、小説家、評論家、戯曲家、脚本家、バレエ制作者、オペラ制作者、映画制作者、監督、俳優、画家など本当に様々な芸術活動を手掛けてきた、「芸術のデパート」とも呼ばれてきたアーティストです。

1920年代のパリの中心にいた人で、1920年代のパリにロマンティックなハリウッド脚本家が迷い込むウディ・アレン作品として著名な『ミッドナイト・イン・パリ』にも登場しています。(完全に余談ですが、この『ミッドナイト・イン・パリ』の雰囲気が本当に大好きでパリが更に好きになったのですが、パリはその期待に応えるくらい、まさにこの映画のまま魅力的な街でした。パリに関心のある方にはとってもおすすめな映画です)

そんなパリの黄金時代を生きたジャン・コクトーは、「パリでは誰もが役者になりたがり、見物人に満足するものはいない」と言います。これは果たしてどういう意味なのでしょうか。

役者の人生

当たり前ですが、ここでいう役者というのはひとつの比喩として捉えることができます。それはすなわち、「人前に出る人」です。ジャン・コクトーの時代、きっとパリに居た人はみんな、アーティストやクリエイターになりたくて、表に出てなにかをやってみたくて、それぞれが時にはぶつかり合いながら切磋琢磨していたのだと思います。

サロンやパーティーを開き、そこで沢山の人と関わり話す中で、ジャン・コクトーは常にこのことを思っており、こっそりつけていた日記に、さらっとそうメモしたんじゃないかなと想像します。

色んな人がいるので、実際には「役者」になりたくない人もいたでしょうが、その頃のパリを想像するとやはり並々ならぬエネルギーを感じますし、「パリでは誰もが役者になりたがる」というのは、そうなのかもしれないと思わされます。

見物人の人生?

それと対比して置かれているのが見物人です。これはもうことばの通り、「外から見ている人」です。役者を眺めている人です。このジャン・コクトーのことばを初めて知ったとき、僕はこの「見物人」が現代のネット社会に生きる「匿名の人」に重なりました。

匿名社会ということばも生まれたように、ネットの出現によって私たちは顔を合わせることなくコミュニケーションができるようになりました。それは様々な豊かさを生み出しましたが、大きな問題も生み出しました。いわゆるネットリンチや人をことばで「叩く」行為、炎上などです。

表に出ることなく(顔を見せることなく)外から表に出ている人に石を投げる行為は、ただ見ている人とは異なるので厳密には見物人と重なることはありません。ただ、このジャン・コクトーのことばを知ったとき、やっぱり今の社会との違いを感じたんです。

役者が少なくなった理由

役者として舞台に立つというのは、本当に怖いことです。それは不特定多数の人に自らを晒す行為で、常に批判や罵倒と隣り合わせの行為です。1920年代のパリではその役者を目指す人しかいなかった。でも、今はきっと多くの人が役者になることが怖くなってしまっている。それは純粋に人々に勇気がなくなったというよりは、「見物人」の力が肥大したことにあるんだと思います。

面と向かって何かを言う人はあまり多くありません。もし仮に言われるとすれば自らも顔を晒している以上、その意見は建設的になるでしょうし、なによりちゃんとした「批判」として受け取れるはずです。しかし匿名の場合、単なる誹謗中傷を好き勝手並べ立てることが可能です。見えない場所にいるからです。ですが、受け手はそのことばがどの程度の正しさを持っているのか判断する材料がありません。匿名だからです。そうすると、役者は「誹謗中傷」を「批判」と受け取ってしまう機会が多くなりより傷つく。そして次第に、傷ついた役者を見て怖くなり、役者を目指す人自体が少なくなってしまった……。そういうことのような気がします。

舞台に立つということ

たしかに舞台に立つということは、そうしたことも含めた覚悟が必要な部分はあります。ですが、役者が居なくなった世界を想像すると、そこはあまりにも色がなく、殺風景な、寂しい世界が広がってしまっている気がします。たとえ玉石混交でも、役者が沢山いる世界、役者を目指す人が沢山いる世界の方が豊かだし、面白いです。

もちろん、ジャン・コクトーが生きた世界と今の世界は違います。でも、表現できる場所が増え、役者を目指す道が増えた今の世界だからこそ、あの頃のパリとはまた違った新しい黄金時代を生み出せるはずです。

全員が役者を目指す必要はありません。ですが、役者を目指せる世界のためにできることはまだまだある気がします。素敵な世界は、素敵な舞台と同じく、人間の意志によってつくられるはずなので。

 

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