【今週のことばたち#10】咳をしても一人(尾崎放哉)

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【今週のことばたち#10】咳をしても一人(尾崎放哉)

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11月も半ばです

11月も半ばになりましたが、いかがお過ごしでしょうか。風邪を引いていませんか? 心の体調を崩していませんか?

僕は今、この文章を9月末のとある深夜に書いています。書くときはいつも、少し未来にいる、これを読んでくださっているあなたのことを想像しつつ書き始めるのですが、だからこそ毎回「いかがお過ごしですか?」と聞いてしまいます。あたかも僕とあなたが一緒にいるように。

ただ、文章というものはすべからくすべてそうですが、これを読んでいるあなたは今一人で、そして、これを書いている僕も今一人です。通勤中に読んでくださってるのかもしれないし、家でリラックスしながら読んでくださっているのかもしれない。想定しうるシチュエーションは無限にありますが、99%の確率で、今、あなたはこれを一人で読んでくださっている。そして僕もまた、最初に書いたとおり、とある夜一人でパソコンに向かってこれを書いています。

なぜこんな前置きをしたのか。なぜなら今日は、今の僕たちの状況、「一人であること」、すなわち「孤独」について考えてみたいからです。

孤独と聞いて何を思うか

孤独と聞いて何を思うでしょうか。ある人は、夕暮れのワンルームを思うかもしれませんし、ある人は、明け方のコンビニバイトを思うかもしれませんし、またある人は、学校の給食の時間を思うかもしれません。

僕自身も、孤独と聞くと沢山の光景・景色・記憶が見えてくるのですが、ことばとして思い出すのは、俳人・尾崎放哉の名句です。

咳をしても一人

この俳句は、いわゆる五七五のかたちを取らない自由律俳句というジャンルで名句として知られる句の代表的なものです。自由律俳句というもの自体を知らない方からすると、「これって俳句なの?」と思われるかもしれませんが、形式にとらわれることなく、自在に句を追求する方法が自由律俳句です。

この句を知ったのは、大学1年生くらいだった気がするのですが、初めてこの句に出会ったときに驚くほど泣いてしまったのを覚えています。決して涙もろい方ではないのですが、小さなワンルームのアパートで本を読んでいる自分と、尾崎放哉を重ね合わせてしまい、妙な安心と不安を感じて泣いてしまった記憶があります。

この9文字に込められている人生の孤独、人生の虚しさ、カラカラとした乾いた感じがなんとも言えず、この句はずっと忘れられないことばのひとつです。

それでも一人でいたい

この句を知り、涙してしまうくらいではさぞかし寂しがり屋なのだろうと思う人もいるかもしれませんが、そういうことではまったくなく、むしろ一人でいるのは好きな方です。

僕はどれだけお金を積まれようともナイトプールにダイブはしないでしょうし、フェス的なものに参加したいと思ったこともありません。また、一対一で食事をしたり、おしゃべりするのは好きですが、パーティーや合コンのように、何人もの人がいる場所ではどうすればいいのか分からず、固まってしまいます。そのため、多少淋しい奴だと思われたとしても、焼き肉が食べたければ一人焼肉をしますし、ファミレスだってカラオケだって一人でどこでも行きます。要するに、どちらかというと一人が好きな人間です。

でも、だからこそ、尾崎放哉のこの句に共感してしまい、涙してしまう自分がいます。孤独が好きで、孤独でいることを自分で決めているからこその哀しさというか、なんとも言えない虚無感というか。そういうものがある気がして。

「孤独が好きなのに、孤独で寂しいってどういうことだよ」というツッコミが入ってしまいそうですが、この部分こそ、孤独の難しさ、そして奥深さにつながっていると思うので、もう少しだけ深堀りさせて下さい。

「孤独が好き=寂しくない」わけじゃない

尾崎放哉のような人にとって、あるいは孤独が好きな人にとって、孤独でいることは人と群れていたり、人の輪の中にいるより心地よく自然で楽しい状態です。

孤独は素敵です。孤独だからいろんなことが考えられるし、自分のことも見つめ直すことができます。孤独だから静けさを味わうことができるし、空の美しさに気づくことができます。だから僕は孤独が好きだし、きっと尾崎放哉も孤独が好きだったはずです(実際、放哉は流浪遁世ののち、小豆島にて死去しています)。

ですが、だからといって孤独でいることが寂しくない、なんとも思わない、ということではないと思うんです。誰かがそばにいてくれたらなと思ってしまうことがあるし、誰かと歓びや悲しみを分かち合いたいと思うときもある。一見矛盾しているようですが、尾崎放哉の句をじっくりと味わうと、そうした相反する感情をすべて包み込んだ上での、孤独の肯定、それこそが「咳をしても一人」なのではないか、と思うんです。咳をしても一人、だけど私は一人でいる。それこそがこの句の味わい深さなのではないか、と。

孤独が通じ合うということ

そしてもうひとつ、この句についていつも思うことがあります。それは、この句を詠んだ尾崎放哉と、この句を知った読者は、お互い孤独で、孤独のまま繋がり合っている、ということです。

僕は大学生の時、この尾崎放哉の句を知って涙しました。その時放哉は既に亡くなっていますから、僕と放哉が直接出会い、食事をしたりお酒を飲むことはありません。ですが、この句を詠んだときの放哉と、この句を知ったときの自分はそれぞれに孤独でありながら、その孤独をもって繋がれたような気がするんです。

繋がったからといって、寂しさが紛れるわけではありません。あくまで両者は孤独です。一人と一人です。でも、僕はそこに安心のようなものを感じてしまいます。そして、そこにこそ孤独の豊かさがある気がするんです。孤独のまま通じ合うという豊かさが。

書いている僕と読んでいるあなた

そしてこの関係は、これを書いている今の僕とこれを読んで下さっているあなたとの関係でもあります。

僕の書いている文章は、放哉のそれとは比較にならないほど拙いものではありますが、それでも書いている僕は一人で、読んでいるあなたもまた一人です。

でも、それってなんだかとても素敵で、何物にも代えがたい歓びな気もするんです。きっと僕とあなたは、一生出会うことはないだろうし、仮に駅のホームですれ違ってもお互いに気づくことはありません。孤独な人生をお互い生き続けます。

でもこうして、少しの時間、一緒に放哉の句や孤独のことを考えることができた。僕はあなたが悲しいとき、そばにいて声をかけたり励ますことはできません。ですが、この文章を書いているこの時間、あなたのことをたしかに考えています。

僕とあなたは孤独で、でもその孤独のお蔭で少しだけ繋がれたような気がする。小さくて他愛もないことだけど、それって素敵なことだと思うのですが、どうでしょうか?

ということで

今日は尾崎放哉の句から、孤独について考えてみました。人間は皆孤独である、ということばもあるように、孤独が尽きることはなければ寂しさも尽きることはありません。でも、だからこそ人生は味わい深いのだろうし、そこに面白さや豊かさがあるような気がします。

寂しくてどうしようもないとき、この文章がなにかの励みになったら嬉しいです。

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