【今週のことばたち#9】道草によってこそ道の味がわかる(河合隼雄)

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【今週のことばたち#9】道草によってこそ道の味がわかる(河合隼雄)

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もう11月ですね

こんにちは。気づけばとっくに夏も終わり、冬がもう目の前まで来てしまいました。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。秋、楽しめましたか? 本は読めましたか? 美味しいものは食べましたか? 運動はしましたか? 

あぁ、結局秋を楽しむことすらしなかったなあ、仕事/勉強/家事に追われて、何もできなかったなあと少しがっかりしてしまった人もいるかもしれません。

現代に生きる人はあまりにも忙しいです。電話が発明されたのが19世紀後半、それからまだ200年も経っていないというのに僕たちは、世界中の誰とでもコンマ何秒で連絡を交わすことができます。それは、世界中の人とコミュニケーションできるようになったという多大なメリットを生み出しながら、一方で、人間の時間から余白をなくすという思ってもみなかったデメリットを生み出してしまいました。

電話を作った人は社会を想像していたのか……

遠くの人とのやり取りをスムーズにできたらどんなに素敵だろう……そう考えて研究に打ち込み、電話やメールを生み出した人たちは、果たして今の社会を想像していたのでしょうか。ふと、疑問に思ってしまうことがあります。

きっと、遠い地で働く家族や遠距離恋愛をする若きカップル、田舎に住む両親のために通信を発達させようと思ったと思うのですが、どうだったんでしょう。もちろん、ビジネスとしての利用を考えた人たちも沢山いたでしょうし、インターネットの成立が軍事的なきっかけにあるように、政治的な目論見もあったのだとは思います。それでも、きっと開発者たちは、遠くにいるその人のことを想って開発していたはずです。

ですが、そうした想いとは裏腹に、世界はショートカット化され、私たちは赤信号1つ、電車1本すら待てない人種になってしまいました。先日、乗っていた電車が人身事故で止まってしまったのですが、それを告げるアナウンスに対して、いくつものため息と舌打ちが聞こえたときに、なにかがおかしくなってしまっているのではないか、と感じずにはいれませんでした。

それでも社会は止まりません。動き続けます。こんな世界に生まれたかったわけではないのに。そう思ってしまう人も少なくないはずです。そんなふうに感じている人に向けて渡したいことばが、今週のことばです。

今週のことばは……

「道草によってこそ道の味がわかる」です。

道草とは、「道草を食う」という表現からも分かる通り、昔、馬によって人間や情報が移動していた時代、馬が道に生えている草を食べながら歩いてしまうことによって思ったように進まないことを表しており、のんびり進んでいくことを意味します。

このことばを残したのは、河合隼雄という心理学者です。河合隼雄は、1928年生まれの臨床心理学者で、日本におけるユング派心理学の第一人者です。独自の視点から日本社会や日本人の精神構造を分析し続けた心理学の大家です。

そんな河合隼雄という人が残したこのことばにはどんなことばが込められているのか、今週のことばに習い、少しだけ道草しつつ、考えてみたいと思います。

通学路って、こんなに短かった?

6年ほど前、大学生だった僕は秋のある日にふと、「そうだ、小学校に行ってみよう」と思い立ちました。といっても、小学校に無断で入って小学生と遊ぼう、などと思いついたのではなく(それは危ない人です)、小学校の頃見ていた景色を今の自分が歩いたらどんなふうに思うんだろうと思い、通っていた小学校まで行ってみました。

時刻も夕暮れになり、どことなく下校の雰囲気を感じます。小学校まで来た自分は、「結構歩くだろうな……」なんて思い、少し気合を入れ、当時家族で住んでいた家に向かいました。

舗装された道路があって、砂利道があって、背の高い植物が生えている道があって、住宅街があって、公園横を通って……驚きました。もう昔住んでいた家が目の前です。本当にあっけなく家についてしまいました。本当に、ほんとうにあっけなく。

その時は、「歩くのが早くなったんだな」としか思いませんでしたが、しばらく経ってから、「まっすぐ歩いていたのではないか?」と思い直すようになりました。

もちろん、純粋に歩くのが早くなった側面もあると思います。ですが、それ以上に、大人になってしまった僕は「まっすぐ歩けるようになってしまった」んだと思います。小学生の頃であれば、空を見て変わった形の雲を見つければそれがどこに向かうのかを眺め続けていましたし、地面を見つめては丸っこい石や変わった形の石を見つけてコレクションしたりしていました。そんな自分にとって、通学路の道は遊びの宝庫です。10分で帰ることなんて不可能だったんだと思います。

ですが、大学生になった自分は情報の取捨選択を覚え、「へえ、こんなだったっけ?」なんて思ったりはしたでしょうが、それでも歩みを止めることなんてなく、「まっすぐ」に歩いてしまった。それによって、通学路が「短く」なってしまったんだと思います。

石ころと雲を見る帰り道

どっちがいいのかは分かりません。少なくとも、世界中の大人が会社への行き帰りで石ころと雲ばかりを気にしていては、社会が止まってしまいます。もしかしたら、壊れてしまうかもしれません。

ですが、僕たちはあまりにも石ころと雲を見ることを忘れてしまっている気もして。それはまさしく、「生きるために働いているのではなく、働くために生きているのではないか」という疑問に集約されている気がします。

そしてきっと、河合隼雄が言いたかったのは、「たまには石ころや雲を見てみなさいよ」ということなんだと思うんです。河合隼雄の生きた京都には美しい寺院や鴨川をはじめとした素敵な「石ころ」や「雲」が沢山あります。それに目もくれず、ただ仕事場と家を往復するサラリーマンを横目に、呟いたのではないでしょうか。「道草によってこそ 道の味がわかるんだよ」と。

「道」を極めるために

ここでいう道は、純粋な道だけではなく、剣道や柔道でいう道、すなわち、なにかを目指す上で広がる道についても書かれている気がします。

僕たちは今、とにかく効率重視で、何かを習得する際にどれだけショートカットできるか、無駄を省くかを考えてしまいますが、もしかしたらなにかの道を極め、味を知るというのは、無駄なく学ぶのではなく、むしろ遊ぶように、それこそ道にある石ころや空を眺めなければならないのかもしれません。

少なくとも、心理学の道を極めた河合隼雄は、心理学の道を道草して、遊ぶようにその味を味わい尽くした人なんだと思います。

道草としての人生

ということで、今週は河合隼雄の道草に関することばを取り上げました。

書いていて思ったのは、このことばは人生そのものの楽しみ方まで示しているな、ということです。

人生をまっすぐ早足で無駄なく歩くことはできます。でもそれによって歩いた道は何だったのか。むしろ、回り道でものんびりでも無駄をいとわず、道を丹念に味わいながら歩く道(人生)もいいのではないか、そう思ってしまいました。

日々を生きていると、なかなかそうした気持ちにはなれないかもしれませんが、どこかに「道草としての人生」があることを覚えていてもらえたら嬉しいです。

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