【今週のことばたち#8】どうでもよいことは流行に従い、重大なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う(小津安二郎)

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【今週のことばたち#8】どうでもよいことは流行に従い、重大なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う(小津安二郎)

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「静か」について

こんにちは。少しずつ秋も深まり、自然の世界はゆっくりと静かな時間を迎えようとしているのではないかと思います。この「静か」ということを考えると僕はいつも、雪の日の朝を思い出します。

目を覚ますと、なんだか外がいつもと違う気がする。理屈なく、なにか静けさを感じて、カーテンをパッと開けてみる。そこに広がるのは、一面の白い景色。「あぁ、今日は雪かぁ」となんとなく納得してまた二度寝に戻る……。二度寝をするのは僕だけかもしれませんが、そんなシーンを「静か」から連想します。

今日はそんな雪の静けさにも似た淡々とした映画を淡々と作り続けた映画監督の名言から、芸術や自分自身の表現について考えてみたいと思います。

映画監督「OZU」

小津安二郎は、1903年生まれの映画監督です。映画好きの方はご存じの方も多いかと思います。独自の映像世界、空気感をまとったその映画は小津調とも呼ばれており、日本だけでなく、世界的な評価を受けています。

映画を観るとそこには徹底的な美の追求があり、例えるなら茶や禅に似た精神的な静けさがあります。実際、小津安二郎のお墓には「無」の一文字のみが書かれており、小津安二郎の精神性というか、そういうものを感じられると思います。

そんな小津安二郎が社会や芸術のことをどう捉えていたのか、それを端的に示したことばが今日の名言です。

流れ行くもの

小津安二郎のこのことばは、社会と自分との距離について述べられたことばだと思います。社会に存在する様々な問題・事象と自分との関係がどのようになっているのかを考える点で、示唆に富むことばだと思うので、そこから考えてみたいと思います。

まず小津安二郎は、「どうでもよいことは流行に従う」と言います。

きっと、ここでいうどうでもよいことというのは、具体的に◯◯はどうでもよいことだ、ということを意味しているわけではなく、あくまで些末なこと全般を抽象的に示しているのだと思います。そしてそれらは、流行に従うと。

ここでなるほど、と思わされるのは、このことばを逆さまに捉えたときです。要するに、「流行しているもの」というのは、基本的にどうでもよいことなんだということです。これは、今の社会からすると、かなり衝撃・驚きの内容です。だって、今の僕たちは日頃から「バズったかどうか」を基準に生きてしまっているからです。

ほとんどの人がスマホを使って、ネットニュースを見て、SNSで感想・意見を投稿して。エンタメもどれだけSNSで話題になったかどうかが作品の善し悪しの基準になる……。もちろん、そうしたことが一概に悪いことだとは言えないと思います。ですが、そうした量的な評価の行き着く先は明るいものとは言い切れない部分がある気がします。

そうした中で、小津安二郎はそれらはどうでもよいことだ、と言い切る。もちろん、自分が好きになったものが結果的に流行に乗っている事はあると思いますし、それをどうでもいいものだと捉える必要はないと思います。ですが、「みんなが見てるから」「流行っているから」という理由で、そうした流れ行くものを追うのは、きっとあまり意味のないことだし、なにより自分が疲れてしまいます。そんなときには、この小津安二郎のことばを思い出してほしいです。

道徳ってなんだ?

次に小津安二郎は、「重大なことは道徳に従う」と言います。ここで個人的に面白いと思うのは、重大なことを「理性」や「理屈」に従うわけじゃない、と言っているところです。

「重大なことを道徳に従う」って、字面だけみるとそんなに大したことを言っているわけじゃないようにも感じるのですが(ごめんなさい)、今の社会に生きている中で、果たしてどれだけの物事がほんとうの意味で道徳的に判断されているんだろうって、思ってしまうことも多い気がします。

もちろん、道徳とはなにか、道徳的な判断ってなにかということは、それだけでとんでもなく大問題です。なので、ここではそこまで話を広げることはできないのですが、少なくともきっと道徳というのは、学校の「道徳」の授業の中にあるようなものではないし、もっと個人的でもっとそれぞれの心に寄り添った小さいもののことのような気がします。このあたりのことは、また別の機会に考えられたらと思っています。

そして芸術とは……

長旅、お疲れさまでした。いよいよ、本題の芸術についてです。こうした社会的な物事に関する考察を踏まえて、小津安二郎は自身のやっている芸術というのは、何に従うのかを明確に示しました。芸術は、「社会」でもなければ、「時代」でもなく「自分」に従うのだ、と。

芸術とは、人間社会の中で営まれるものである以上、それから逃れることは出来ない。だから芸術というのは、社会に向けてつくられるべきだし、もっといえば、社会性のあるものでなければ、芸術の価値はないという人もいるかもしれません。

しかし、小津安二郎はそうした発想とは真逆の位置に自分を置きます。あくまで芸術とは自分からはじまる、自分に従うものなんだと。ただこれは、社会的なことはなんの関係もない、ということではなく、あくまで芸術は自分からはじめないといけないということを示したことばだと思います。

さんざん小津安二郎さんの話をしたあとに自分の話をするのは恐縮なのですが、以前こんなことがありました。僕が書く脚本は基本的に物語の起伏があまりなく、それでいてあまり社会問題などに切り込むようなものでもありません。静かでやわらかいといえば聞こえは良いですが、言ってしまえばそんなに大したことは起こらないお話です。そんなお話を書いているので、実際、否定されたりすることもあります。

ですが、あるとき、僕の作品を手に取って下さった方に「優しい気持ちになりました。今必要な話だと思います」と言われたんです。そのとき、僕はとてもびっくりしたんです。なぜなら、僕自身は「今必要なお話」というふうに考えて書いたことはなくて、あくまで自分が面白い、楽しい、(自分にとって)意味があると思って書いていたからです。そのときに気づいたのは、自分の奥を掘っていけば、そこに社会があるということです。

今を生きている自分がいて、その自分が考えたことや必要だと思うことは、最終的には否が応でも社会とつながるんだと思うんです。だからこそ小津安二郎は、無理に流行を追うのではなく、じっくり自分と向き合って、そこから芸術を始めようとしたんだと思います。

きっと小津さんは、そうしたことを考えた上で、「あなたの映画には社会性がない!」なんて怒ってくる映画評論家の方などに、このことばを言ったんじゃないかと思います。

ということで……

今回は小津安二郎のことばから、社会と表現の関係について考えてみました。

ここまで書いてきて、ここでいう芸術というのは、生きることそのもののような気がしました。自分に従って生きるというと、勝手に聞こえますが、内なる自分と対話して、そのままに生きることができたら、きっと自分も周りも幸せになるし、その人生は社会にも静かにいい影響を与え続ける気がしています。

気になった方は、小津安二郎の映画、一本観てみてもらえたら嬉しいです。

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